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  • >ハナシの畑〈02〉菅野 義樹さん・美枝子さん
ハナシの畑

たった一度の人生だもの、やりたいことを諦めないで。

栗山町御園地区
和牛繁殖畜産農家/『菅野牧園』

代表 菅野 義樹さん・美枝子さん (平成27年就農)

小高い丘に建てられた牛舎のほとりに、真新しいオレンジ色のトラクターがあった。
そのナンバープレートには、「福島県飯舘村」なる地名が記載されている。
耳にしたことがあるという人も多いだろう。
先の原発事故によって甚大な放射線被害を被り、全村民が避難指示を受けた村だ。
そしてその村は栗山の新規就農者、菅野義樹さんが生まれ育った故郷でもある。

突然襲いかかった原発事故。
農への、一縷の望みを抱いて北海道へ。

5棟ほど並んだビニール製の牛舎が、陽光を跳ね返しキラキラ輝いている。手前の棟にはのんびりと草を食む和牛が25頭ほど。奥の棟には大量の干し草ロール、その横の棟には大小幾つかのトラクターが並んでいる。どの棟も非常に清潔で、整理整頓が見事に行き届いていた。「根が几帳面だからかなぁ」そう言って相好を崩すと、屈強そうな顔立ちになんとも言えない愛嬌が満ちた。

菅野義樹さん37歳。生家は飯舘村で17代続く農家。大学の4年間と卒業後の数年間を北海道で過ごし、農やビジネスのスキルを積んだ後、実家の農業を継ぐべく2007年に帰郷し、両親と奥様の4人で和牛繁殖や稲作を手がけていた。

「実家に戻って4年目。前年結婚したこともあり、そろそろ両親と経営を分離しようかと話していた矢先の震災でした。直接被害が少なかったため当初は楽観視していたのですが、連日報道される放射能の拡散状況を見るにつれ、これはただ事では済まないと覚悟しました」

ほどなく村全体に避難勧告が出され、家族を連れて茨城へ疎開。その最中に、大学時代に研修で世話になった農場から、うちで働かないかという連絡が来た。

震災の3ヵ月後には長沼に仮の住まいを移していました。すでに飯舘村での農場の再開は見通しがつかないという状況でしたから」

 故郷を失った悲しみに加え、代々守り継いできた農地を手放さねばならないこと、さらに郷土人の繋がりが消えゆくことに絶えられないほどの喪失感を覚えたが、それでも菅野さんは農業を諦めることはなかった。

「自分にできることは、それしかなかったですから」当時を思い出したのだろうか、菅野さんがぽつりと言った。

自分の代の役割は栗山で独立し
和牛繁殖を続けていくことなんです。

仲間に励まされ、土にまみれながら長沼の農場では約一年働いた。農の世界で生きるという決意は揺るがなかったが、『この先どの道を歩むべきか』という自問に対してなかなか答えが見いだせなかった。

「法人の従業員として働くか、それとも独立するべきか。以前のような畜産は可能なのか。この先もずっと長沼にいるべきなのか…日々思案に暮れていました」

とりわけ独立の道が困難なのは容易に想像できた。かつての飯舘村には200戸を超える農家がいたが、避難先で農業を再開したのはわずか7戸。ほとんどは身を切る思いで農を諦め転職をしたり、再開が困難で身動きが取れないままの人もいた。

別の場所で新たに農業を始めるためには、資金、土地、まわりの環境や人間関係など、様々なハードルがある。

しかし菅野さんはあえて茨の道に踏み出す決意をする。 原発事故に屈したくないという意地もあった。和牛繁殖という仕事へのこだわりもあった。しかしその決意を根底から支えていたのは、いつかは故郷の飯舘村に帰るという強い思いだった。

「もしかしたら飯館村の完全な復興は、自分の代ではなく子どもや孫の代になるかもしれない。でも必ず帰ろうと。飯舘村で畜産を再開しようと。そのためにまずは北海道で独立し、和牛繁殖を続けていくのが自分の役目だと思いました」

脈々と引き継がれてきた家業を自分の代で絶やすわけにはいかない。決意を新たにしていた菅野さんのもとに、和牛繁殖の研修の話が舞い込む。町の名前は栗山町。学生時代何度か足を運んだことのある馴染みあるまちだった。

「厳寒地の畜産が全くわからなかった自分にとって、研修はその知識を習得できる絶好の機会。公社の方々は自分の境遇も理解してくれたし、研修先の確保、復興庁への支援の取り付けなどにも骨を折ってくださいました」

 心は決まった。栗山で独立就農の道を歩もう。2012年7月、菅野さんは奥様と幼い子どもを連れ立って栗山の研修生用住宅に移住。心機一転、研修生活をスタートさせた。

学ぶほど、暮らすほどに
栗山の農と人の良さが伝わってきました。

研修先は御園地区のランサーデーリィサービス。栗山町の和牛繁殖では一番の経営規模を誇る農業生産法人だった。代表の大井賢治さんからは寒冷地の畜産に関するノウハウから農場の経営、販路確保の手順まで多彩な事柄を学んだ。さらに同社が町内の傾斜地や狭小農地の引き受け先となり、耕作放棄地の増加を防ぐという社会的な役割を担っていることも知った。

「生産だけが法人の使命ではないことを身をもって教えていただきました」

 栗山農業全体を俯瞰する機会も増えた。驚いたのは、飼料の稲わらが豊富に得られる一方、畜産の副産物の堆肥を農地に還元できること。栗山は稲作と畜産が理想的なサイクルを描く地域だったのだ。循環型の畜産を志す菅野さんにとって、その事実は大きな魅力となった。

好循環は農家や町民の心にも生まれていた。稲作農家と畜産農家、先輩農家と新参農家、研修生と公社の職員、そして町民たち。そこかしこで叱咤激励があり、温かな助け合いがあった。菅野さんのもとにも、商店街の大先輩から役場の同年代まで、実に様々な町民が訪れた。夜な夜な酒瓶を抱えながら、これからの栗山についての激論を交わしあったこともあった。

畜産の舞台として選んだ栗山が、次第に生きていく舞台に変わっていく。さまざまな人との出会いを重ねるたびに、菅野さんの頭の片隅にあった不安が希薄になり、代わって期待や自信が生まれていった。菅野さんのご家族も同じ思いだった。

和牛繁殖の要「冷凍精子」

自分が成功することで
さまざまな思いを飯舘村に還元していきたい。

研修の2年は瞬く間に過ぎた。その間遠く離れた飯舘村からの支援、栗山町役場や公社の職員のサポートもあり、栗山町内の8haの農地と就農の準備金、さらに農業機械を確保することもできた。

2014年11月、菅野牧園が始動する。牛舎など4棟の施設に、繁殖和牛が25頭あまり。周辺には暗渠も入れた。牧草地は6haほどで、将来的には放牧をしたいと考えているという。2015年2月には種付けを敢行した。そして同年12月に初めての仔牛が生まれる。

「先輩農家や施行業者さん、公社の方々の手助けもありここまでは順調でしたが、これからが正念場ですよ。最初の収入も、仔牛を販売できる9月以降ですからね」

それまではバイトもしないと、と菅野さん。しかしその顔には悲壮感は微塵もない。原発事故という悲嘆のどん底から這い上がってきた菅野さんにとって、念願の農場を持ち自らの力で運命を切り開けるこの瞬間こそ、彼の人生の大きな節目であり、次なる夢への入口なのだ。

栗山町民になって3年目。半年前には長男も誕生し、家は一層賑やかになった。就農当初は〝飯舘村に戻ること〟にこだわったが、栗山町民のあたたかさに触れるうちに北海道を捨てて飯館村に戻るのではなく、栗山と飯館の両地域を舞台に、相互を連携させながら農を続けていけたら、と考えるようにもなってきた。腕に抱えた幼子を眺めながら菅野さんは最後にこういった。

「今も避難生活を続け、新たな生活を始められずに苦しんでいる人がいることに申し訳なく感じることもあります。でも、だからこそ僕は成功しなければならない。成功して、培った技術やネットワークを飯舘村に還元していかなきゃならないって思ってるんです」

〈平成27年8月取材〉