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ハナシの畑

家族が寄り添って生きていくこと。その答えを探し続けたら栗山の就農という道にたどり着いたんです。

栗山町円山地区
『有限会社日原メロン園』(研修先)

古川 慶一さん・園子さん

ブランドメロンとしても知られる日原メロン。
その栽培や加工の現場で汗を流す一組の夫婦がいる。古川慶一さん・園子さん。
二年ほど前、一家四人で東京から栗山に移住し、
将来の独立就農を目指し研修生として経験を積んでいる。
慶一さんの前職は大手電機メーカーのエンジニア。
最先端の世界から北の農の世界へ、180度の転身を図った理由とはなんだろう。

学生時代から温めていた夢、
それはいつの日か北海道で暮らすこと。

慶一さんは、今をときめく有機ELというフィールドの研究開発エンジニアとして、大阪と東京で各々10年働いていた。転機が訪れたのは4年ほど前。発端となったのは園子さんとの結婚だった。 「妻には子どもがいたので、いきなり4人所帯に。家族ができたことが本当にうれしかった」

喜びに胸を躍らせた慶一さんだったが、現実には団らんの時間はほんの僅かだった。仕事が多忙を極めていたためだ。夜が明けきらない時刻に会社にでかけ、家族が寝静まった夜中に家に帰る。起きている子どもの顔を久しく見ていないこともザラ。せっかく家族ができたのに、寂しさは日増しに募っていった。

結婚してしばらくたったある日、慶一さんは園子さんに小さな告白をする。それはいつか北海道に住みたいという夢を温めているということ。

「広い大地に対する憧れが強かったんでしょうね。ただ現実に移り住むとなると話は別。仕事にもそれなりのやりがいを感じていましたし」

何気に口をついたささやかな夢の話。しかしその話を耳にした園子さんからは意外な答えが返ってきた。

「私も言ってたよね、自然の中で子どもを育てたいって。我慢することないよ。家族で北海道に移住しようよ」

身の丈にあった町で暮らしたい
家族で過ごせる仕事に就きたい。

では北海道のどこで暮らすか。この時点では未定だったが、慶一さんの心の中にはいくつかの条件があった。

「まずは豊かな自然があること。子どものための教育環境や医療施設が整っていること。実家が本州なので空港が近くにあることも条件の一つとしました」

都会には住みたくない。かといって不便が過ぎると暮らしづらい。北海道の新生活は家族の身の丈にあった町で、と決めていた。

もう一つ大切なのは、どんな仕事に就くかということ。北海道への移住は絵空事ではない。将来に続く生業と確かな収入は不可欠だ。とはいうもののその仕事に、家族との時間を蝕まれるのは絶対に嫌だった。さまざまに思いを巡らせる中でおぼろげに見えてきたのが、就農という道。

「企業への就職や林業なども考えたけれど、家族で過ごせる仕事、モノづくりに通じる仕事はやはり農業かなと。ただ僕は土をいじったことすら無かったんですけどね(笑)」

北海道への移住と、農を生業とした家族の暮らし。慶一さんのささやかな夢が現実に向かって動き始めた。2013年春のことである。

お友だちと一緒に

この小さな町には、
私たちが思い描いていた
すべてがありました。

その頃から慶一さんは何度となく北海道に渡り、さまざまな町を訪ね歩いた。役場の就農相談窓口に出向いたり、マチナカの商店街や農地をまわったり。数日間の農業体験をしたこともあった。

「新規就農者を歓迎する町、さほどでもない町などさまざま。ただ私たちの条件に見合うところにはなかなか巡り会えませんでした」2013年夏頃、退路を断つために半年後の退社を決意した。

2013年秋、慶一さんは東京で開催された北海道新規就農、農業体験セミナーを再訪する。そこで初めて目にしたのが栗山町の農業振興公社のボード。導かれるようにそのブースへ歩み寄った。二言三言会話を交わすだけで、ピンとくるものがあった。

「まちの規模も、教育施設や医療環境も、ロケーションも、自分たちの条件にぴったり。体験してから研修生になるか決めればいい、という懐の深さにも好感が持てました」

さらに話はメロン栽培を手掛ける農業生産法人が研修生を受け入れている、というところにまで及んだ。技術の高さは全道屈指。全国にファンを持つブランドメロンだという。もとより古川さんは資金面でのハードルが高い酪農以外ならどんな農業でもと考えていた。その心にやってみたい、という熱意が芽生えた。

それから数週間後。まずは園子さんが栗山へ。「きれいな町並みと見果たす限りの雪原。ちょうどいい田舎っていうのが第一印象。受け入れ農家の日原さんもとても好意的でした」

その後慶一さんも栗山に降り立つ。思った通り規模や環境は文句なし。多彩な農がバランスよく調和しているところも魅力だった。何より嬉しかったのは日原さんがかけてくれた言葉。

「研修後は独立してもいいし、うちの従業員になってもいい。どちらにしても自分が教えられるものはすべて伝えるつもりだよと」

差し出されたメロンを一口含む。それは今まで食べたどのメロンより、瑞々しくうまかった。

栗山の暮らしは、家族の暮らし。
人と人のつながりも強く、温かいです。

2014年3月、一家は東京を離れ栗山へと移住する。大黒柱の慶一さんは4月から日原氏の門下として、メロン栽培を学びはじめた。立場は研修生だったが雇用形態は正社員。年齢的に青年就農給付金の対象とならない慶一さんに対し、栗山町農業振興公社と受け入れ農家の日原氏が考えてくれた待遇だ。

研修は見るもの聞くものすべてが初めてづくし。加えて直伝の技術は、言葉や数式化できない『勘』や『センス』に支えられていることも知った。農は奥が深い。だからこそおもしろいと感じた。

農園の同僚たち、役場や公社の担当者、子どもたちの親御さんなどなど、知り合いも一挙に増えた。都会のドライな人間関係に慣れ過ぎていたからか、当初は戸惑った慶一さんだったが、この人と人のつながりこそが地域で生きていくための生命線だと気づいた。

「しかも、閉鎖的だったり封建的だったりしない。人のつながりに体温があるから助け合いがあり、支え合いが生まれるんです」

研修2ヵ月後には赤ん坊が生まれ家族は5人になった。移住と同時に長女は中学校に入学、次女は小学校に転入した。子どもたちの表情が徐々に変わっていったと園子さんは言う。

「生徒が少ないせいもあり、栗山では生徒一人ひとりにスポットライトが当たるの。それが娘たちには嬉しかったみたい。みんなの一部ではなく自分は自分だってことに気づいたのかもしれないなぁ」

予想通り、収入は以前の半分以下になったが、支出もグンと減った。家賃は格安だし、おすそ分けが日常茶飯事だからだ。いや比べるべきはコストではないだろう。古川さん一家は、この栗山で家族で暮らすという何物にも変えられない「豊かさ」を手に入れたのだから。

私たちにとっては夢の世界だけれど
誰にとっても夢の国ではありません。

現在、慶一さんは研修二年目だ。今年から出産を終えた園子さんも研修生を始めている。まだまだ学ぶべきことは山積しているが、二人の間ではいずれ独立就農するという意志は固まっている。

「ただ焦ってはいません。これからの経験の中で具体的な道を探っていきたいと思っています。時間はありますからね」

最後に、今就農や研修を考えている人たちになにかメッセージを、とお願いしてみた。最初に園子さんが答えてくれた。

「家族の時間がほしい、自然の中で子育てしたい、農の世界で働きたい、独立も目指したい…そんな思いで暮らし始めた私たちにとって、栗山はまさに夢の世界。毎日が充実してるし、この先ずっとここで暮らしたいと思っています。でもそれは私たちだからなんですよね」

慶一さんが言葉を引き継いだ。

「栗山に来れば、幸せが待ってるわけじゃない。不便も大変さもある。栗山への移住や就農は、そういったことを凌駕して幸せを感じられるかという、いわば自分たちの問題なんです。ただその決意を持って来るのなら、私もこの町は本当に素敵だと教えてあげたいですね」

〈平成27年8月取材〉

全国にファンを持つ日原メロン